プロフィール

44才再出発の理由

目次

メイクへの憧れのきっかけ


1970年(昭和45)年10月 大阪府生まれ。4才~福岡市に住んでいます。

中学1年の時の英語の担任の先生の影響をうけて、最初の夢は中学校の英語教師になることでした。だんだんと外国の文化への興味も出てくるのと同時に、テレビCMで毎日の様に流れる「東京モード学園」のCMが何故か気になり・・・

 

デザイナー、メイクアップアーティスト等の紹介動画がものすごくかっこよく流れていたのを今でも思い出します。「東京モード学園」のCMを見ていると、福岡には学校がないことが分かりがっかりしました。

その強烈なかっこいいキャリアウーマンのイメージがどうしても離れず、高3の時に親に話してみました。ほとんどの同級生が短大や大学進学をすることや、美容の世界に飛び込んでいくイメージが憧れに過ぎないかも、、といわゆる安全な道へ進むことにしました。

4回の転職期間で学んだこと(1990年~2000年)


 その後、福岡の短大(英文科)へ進学し中学英語の福岡市教職員試験に合格しましたが、公務員にならず旅行会社に就職しました。

バブル時期でもあり、公務員は地味な職業のイメージ、一般企業への就職が人気でした。旅行会社に入社しましたが、頭の片隅にメイク(美容)に関する仕事への憧れは消えず毎日を過ごしていました。

 

仕事に慣れてきた入社3年目の頃、思い切って東京の化粧品総合メーカーに問い合わせをしてみたり、、転職のことを考える様になりました。

 

昼休みに会社のビルの一階にある公衆電話でテレホンカードを使って何度か東京に長距離電話をしていました。そしてなんと面接をしたいとの連絡あり、担当者が福岡へ来る際に会ってもいいですよ とのこと。

西鉄グランドホテルのロビーで面接があり、「もし大阪へ来ることが出来るのでしたら・・」との話をしてもらいました。そして・・結果的には、大阪へは行きませんでした。

 

行く勇気が無かったのです、、福岡からでる勇気、、思い切ったことを出来ない自分がいました。保守的な長女的な考え方が子どものころからあったのかもしれません。(年子の妹と2人姉妹です)

 

旅行会社での仕事の責任もあり、現実的に転職することは出来ませんでした。その後旅行会社は経営が難しくなり、自主退職者を募っていました。退職金を計算し、自主退職してもいいかな、、と考え、その申し出を受けて入社5年目で辞めました。

 

その後旅行会社で繋がりのあった、海外旅行保険会社にすぐに転職することが出来ました。(海外旅行保険の営業マンに相談していました)この頃には電話、接客、事務全般の仕事にもだいぶ慣れてきて、営業事務も楽しくなってきました。

 

しかしアルバイト契約だったため、「楽しいけどお給料が少ない」生活を変えたい、、と思うようになり、約2年後正社員募集を探し、医学部進学の予備校事務へ就職し、浪人生のサポートや経理事務をしていました。ここでは、社員の年齢層が高く価値観を合わせていくことが大変でしたが勉強になりました。

 

例えば、「社員全員のマイカップや湯のみがあり15人程の社員各々の飲み物を好み通りに、煎茶やコーヒーのミルク砂糖有り無しを間違えずに入れる、、」等 女子社員は当たり前の仕事として毎朝の習慣でした。

 

そして1年経ったころ新聞の求人広告から、リクルート(中古車雑誌九州カーセンサー)へと転職しました。

当時の、九州カーセンサーイメージキャラクター優香

 

なんと、これまでで4回転職しています、、

 

旅行会社~保険会社~予備校~リクルート

 

良く言えば、いろんな会社を経験し上司や同僚との人間関係もいろいろで、仕事のやり方も全く違うので本当に人生勉強になりちょっとやそっとではびくともしない私になっていたような気がします。

 

リクルートでは、その当時「九州カーセンサー」という中古車雑誌の創刊に向けてのスタッフ募集があり、企画、営業事務で入社しました。

後て自分でも驚きましたが、未入金になっている取引先会社へのアプローチと営業マンへの指示で未入金額がぐっと減り会社としては、損益が減ったのです。

「今までの仕事の経験値が生かされて評価された」と分かり、転職してよかった。。と感じました。

 

仕事としては、美容とは全く関係ないことですが、今考えると、メイクの悩みをカウンセリングする時に同じような考え方をしているなと感じます。

 

 

何かの問題を解決するための方法を考えたり、より良くなる方法を提案することが無意識に好きなのかもしれません。

結婚、出産、そして夫の大病


リクルートで働きながら2000年に結婚、2001年に長女が産まれました。

 

2003年、長女が1才半の時、食品卸会社に勤めていた主人が脳腫瘍で2度の手術をしました。

 

脳幹に水膨れが出来て、神経を圧迫して、手がしびれたり、軽いものを落としたりしていました。

最初は疲れだろう、、と整形外科に行ってみたり、内科に行ってビタミン剤をもらったりしましたが一向に回復しません。

 

大病院の脳神経外科に行っても、ほんのかすかな脳幹の影に気づいてもらえず、

(原因が分からない時期はつらかったのを覚えています)

ある小さな病院の先生が偶然にも見つけて下さり、すぐに大学病院で手術になりました。

 

どうしてこんなことに。。

 

子どもが小さいのにこれからどうしていくのか。。

未来はどうなるんだろう。。

と悩み、ある日占いに行ってみました。


生年月日から統計学でみてもらうとなんと、年周りも月周りも全部どん底の時期で、手術の月も悪いですね、、とはっきり言われ

「あとは本人の気持ちと体力です」のような意味のことを言われたのを覚えています。

しばらくは落ち込んでいましたが、家に帰ると普段通りの家事をしてなるべく悪い方に考えないように。。と心がけていました。

 

私の楽観的な考え方なのか、結婚前の転職波乱万丈に慣れているのか、暗い未来が想像できず、

 

「どうにかなるやろ!大丈夫!」

という根拠のない前向きフレーズがいつも頭にありました。もちろん、気持ちの波はありましたが、長女もいるので、とにかく前に進むことだけを考える日々・・・

 

結局、2度の手術を終え、約半年間後遺症の吐き気と倦怠感を自宅で自力で乗り越えるリハビリを続け会社に戻ることができました。入院中、本当は幼児を面会に連れていけないのですが、あまりの吐き気で苦しそうなのでせめてもと思い、

こっそり研修生の看護師さんを呼び止めて、30秒くらい部屋の窓から長女の姿を見せて、さっと退出していました。

 

入院部屋の窓から子どもの顔を見せて子どものパワーを送ることが薬になる。。と

 

半年ほどこんな生活が続きました。

夫の脱サラ宣言


それから主人は独立するためと勉強を初め、資格を取得し脱サラしました。

 

さらっと書きましたが、、土日や夜間に国家試験の勉強をしていて、長女も寄りつかないほどぴりぴり、、

病気から生還した気力がどんどん増してきて集中力が怖い程でした。

 

生きている間にやりたいことはやっておきたい!

その気持はわかっていましたが、正直なところ会社をやめるのは冗談だとばかり思っていました。本当に会社をやめる時は周りの反対もありましたが、サラリーマンでいるとまた病気になるんじゃないかな。。と感じ、「やりたいことをやっていいよ。どうにかなるやろ。」と楽観的に受け止めていくようにしました。

 

そして私も自然と、、自分が今までやりたいと思ったことをやりたい!と影響を受けていました。

44才再出発!


主人の病気を見てきた私は、

人生1回だし私もできないことはないかも」と考えるようになってきました。

長女が4才のころ、1時間だけ「ネイル検定レッスン」に行くことしました。メイクへの想いもありましたが、まずは自分だけの時間を少しでも持つことが楽しみで気分転換になり、その時だけはネイルだけに集中できることが喜びになっていました。手先を使う細かい作業が好きだったことや、その当時ジェルネイルが流行りだした頃でした。

 

そして2人目の出産後、アロママッサージやフェイシャルマッサージを個人サロンで学び、ついにメイクスクールへ入学を決めました。

 

この時、44才でした。

メイクスクールでは、ネイル検定向け授業を受講していました。レッスンでは生徒同士でモデルをし合い、練習します。時々、メイクコースの生徒との練習で、その時は私の顔が練習台になっていました。

 

出産の影響ででシミはあるし眉毛は無いし、、最初はすっぴんになることに抵抗がありました。

だって。。20才の生徒達とは肌が全然違いすぎて。。当たり前だけど。。

 

そんな中、ネイル検定を受けながらメイクコースも一緒に学ぶ決心をします。メイクスクールで最初に問合せをした時の、ネイルの先生の親身な対応がとても嬉しく感じて、ここで学びたい!と直感的に思ったのですが、まさか一端あきらめたメイクを学ぶチャンスがくるとは。。

 

この頃の私のメイクは、細眉にブルーのアイシャドウパール入りパウダーファンデーション、バブル時代が忘れられない青みピンクのリップ。。

レッスンでメイクをされる機会が増えて、ブラウン系アイシャドウやチーク自体を使うことがとても新鮮でした。

劣等感の中のレッスン


疲れ気味のわたし・・最初のコンテストのモデルさんと

 

ネイルコースには、小さな子供を預けて資格取得のために通っているママさんが数人いました。

メイクコースには、私の様な40代生徒はいませんでした。

 

しばらくして、同年代の女性が入学してきた時は嬉しくてすぐに打ち解けお互いに励まし合っていました。

メイクコースでは担当の先生がいて、私の担任の先生は2才年下の美人先生で年下だけど美容界経験は20年以上のベテラン先生。

 

ある日、私は20才の生徒の母親と間違われ、それをきっかけに自分のことを客観的に見てしまう癖がついてしまいました。しかも、スクールの先生が悪気はなく言われた言葉にも敏感になっていました。

 

「最年長の篠田さんががんばっています。」

励ましの言葉も私にはマイナスに感じ、私は今頃なにやってるんだ。。と帰りの電車で考えるようになりました。

 

メイクの技術を学んでいるときは無我夢中ですが、ふと気抜けて我にかえると

「私はメイクの世界ではまだ生徒の段階。先生達の様になるには程遠い。」と落ち込む。。

5回のコンテスト経験


"聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥”

 

そんな中、校内のメイクコンテストやABC(アジアビューティーコングレス)九州大会に出場する機会があり、1人のモデルのトータルコーディネイトを考えて時間内にヘアスタイル、衣装、ネイル、メイクを仕上げていくという、私にとってはそんなことできない!と思っていたことに挑戦することになります。

ましてや、20代の女の子達と競うなんて、、ありえませんでした。

 

もうほんとに頭をフル回転させながらとにかく前に進む。。

担当の先生に何度も何度も相談し、「篠田さんが質問ラインが一番多いです  (-_-;)」と言われても気にせず。。

聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥” の精神でやり遂げようと必死でした。


その中で、先生方のアドバイスはもちろんですが 「モデルさんとの二人三脚」

が一番大事で、モデルさんと自分が創り上げたいイメージを共有することを学びました。

 

プロのモデルさんを依頼し、この年齢の何も分からない私が迷惑をかけないか?私が40代で嫌がられないか?無意識に心配していました。モデルさんは私から希望を出して決まりました。

 

こんな私にも積極的に練習に付き合ってくださり、私が創りたいイメージに真剣に取り組んでくれる人間的にも尊敬する方でした。このモデルさんは2回依頼させてもらいました。

そしてなんと、校内コンテストでチーム優勝をすることができ、副賞で「東京ディズニーランド」へ5人で行くことが出来ました!


自分のことだけ考えてもいい&好きなことはやっていい・・


チーム優勝するまでは、、それはそれは大変でした。チーム5人の生徒が各々5人のモデルをヘア、メイク、ネイル、衣装を構想し創り上げ、5分程のウォーキングをしてもらいます。

 

音楽、演出、もチームで話し合い本番までお互いに気持ちを落とさずにいないとライバルチームには勝てません。一人でやる気はもなくなると、また一人が「できません、まにあいません、、」と言います。。

 

連鎖反応は良い意味でも悪い意味でも起こります。。私は他の生徒の母親の年代なのでチームリーダーを命じられ、とにかく”士気を落とさない”ことだけ考えていました。

 

「できるできる、大丈夫。間に合うけん!」と必死になって声かけをしていました。この時にみんなと連絡を取るために初めてLINEを使い始めたのです(^^;)

 

この時期、、家の中はと言うと、、正直記憶がまばらですが、家事はさっと終わらせて、子供の参観なども行ってましたが頭の中はコンテストで一杯なので確実に子どもに注意する回数は減ってます。。なにせ自分のことだけに集中していますから、、

 

家族にとっては、私が何かに夢中になっていることは良い影響でした。

 

子どもは私のことを見て「好きなことしていいんだ。」と感じていたと思います。

   

自分が直感的に「これいいな!これスキ!」と感じることは、いつか必ず実現できます!

 

いつか、いつか、と思っていてそのうち忘れたりしても、また何かの瞬間思いだす。。

 

それが出来たら笑顔でいる自分、自信がある自分を想像してみてください。

 

💎年齢は本当に関係ありません!💎